西郷どん大河ドラマ館のあと、加治屋町をじっくり散策してみました。
作家の司馬遼太郎さんはこの加治屋町のことを
いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである
と、この国のかたち(2)という著書でおっしゃられています。
明治維新(1867年)から日露戦争(1904年)まで、前後をふくめると約40年間という期間に活躍した政治家、軍人など、明治政府の中枢の多くは加治屋町出身なんですよね。
明治維新は薩長が中心になって起こったことですが、その後長く政治の中心にいて国を作っていくのは、やはり秀逸な人材だったからこそだと思います。
そんな加治屋町を、まずは歴史ロードから見ていきます。
歴史ロード 維新ふるさとの道
歴史ロード入口です。
こちらは大河ドラマ館側からの入り口ですが、こちらの入り口から入って、最後に大久保利通像を見上げる方が、「一蔵どん!立派になりもした~~!」感がでて感動するかもしれません(笑)
が、歴史順で見るなら、大久保利通銅像側の入り口から入った方が、いいです。
歴史ロード周辺にある見どころポイントの地図がありますので、お目当ての場所に行くことができます。
モニュメントで歴史の勉強ができる
歴史ロードには大きなパネル(モニュメント)に画像と説明があり、しばし読みふけります。
鹿児島の歴史、偉人の写真やイラストと文字で解説しています。
大久保利通と岩倉使節団のみなさん
絶対勝てないと言われたロシアのバルチック艦隊を壊滅させた日本の英雄たち
下級武士の住居
加治屋町に住んでいた下級武士の【二つ家】と呼ばれた住居も再現されています。
※座敷にあがることはできません
大久保利通 生い立ちの地
大河ドラマ「西郷どん」では、西郷どんが良い人過ぎて、大久保利通はなんだか悪者に描かれていますが、私財を投げうってまで国の公共事業に財産を使った、誰よりも日本という国を考えていた人なので、あまり悪者に描かないでほしいですね・・・。
ちなみにここは「大久保利通 生い立ちの地」ですが、歴史ロードから少し離れた場所に「大久保利通 誕生地」があります。
歴史ロードから、甲突川を渡ったところにあります。
うっかりすると見落としてしまうほど、目立たないです。
歴史ロードはのんびり散策がおススメ
歴史ロードは、じっくり見て(説明を読んだり)して歩くと1時間くらいかかりますが、ところどころに東屋がありますので、休憩をとることができます。
お散歩コースにもなっているので、そばに流れてる甲突川の景色を見ながらゆっくりのんびり散策するのがいいですね。
加治屋町 史跡めぐり
加治屋町に住んでいた西郷どんをはじめとする幕末の志士たち。
この小さな集落で、彼らがどんな思いで桜島をながめ、お互いの家を行き来し、激動のあの時代を共に生きてきたのか・・・と思いをはせながら歩いてきました。
まずは西郷どんの誕生地から
西郷隆盛・従道 誕生地
歴史ロードのすぐそばに西郷隆盛・従道の誕生地跡があります。
ここは小さな公園になっていて、となりに敬愛幼稚園があるせいか、お子さん連れのママさんたちがいらっしゃって、のどかなかんじがしました。
西郷どんは未来のある子供たちを大切にした人だったので、そばに幼稚園があるのはなんだかとてもほほえましいですね。
弟の西郷従道が東京目黒に住んでいた邸宅から移した庭石もあります。
大山巌元帥 誕生地
さすが大山元帥、誕生地が立派です。
日露戦争では大活躍で、亡くなったときは国葬になるほどの人物になった大山巌元帥ですが、西南戦争では従兄妹の西郷隆盛を攻撃しなければならなかったため、その胸中はどんなものだったろう。。。と思いながら見上げてきました。
社会科の授業で史跡巡りをしている小学生グループがいたので、ノートを見せてもらったり(びっしりメモが書き込まれてた!)、地元の話を聞いたり。
私が突然話しかけたのに、最後に「話をしてくださってありがとうございました!」と挨拶してくれたので、なんて礼儀正しい子供たちなんだろう、これも郷中教育の名残なのかな・・・と、感動しました!
東郷平八郎 誕生地
鹿児島中央高校の校舎沿いにある東郷平八郎の誕生地です。
あのバルチック艦隊を撃破した立役者であり、世界にその名を轟かせ、「陸の大山、海の東郷」と言われた二人が、同じ加治屋町の出身なんですよね。
加治屋町、マジすごいっす!
甲突川にかかる橋から見た桜島
山本権兵衛、英輔 誕生地
海軍大臣から内閣総理大臣になった山本権兵衛とその弟の誕生地
村田新八 誕生地
幼いころから西郷どんを兄と慕い、西郷どんが沖永良部島へ流された時、村田新八も喜界島に流されました。
その村田新八が岩倉使節団の一員として大久保利通とともに欧米視察の旅にでて広い世界を見てきたのに、最期は西郷どん側に付いて、西南戦争で亡くなってしまうんですよね。
大久保利通はこの欧米派遣でかなり考えを変えて、ヨーロッパのように日本を大国に、列強に負けない強い国造りへと力を注いだ人ですが、村田新八はどんなことより西郷どんへの情を貫いたので、これがいいとか悪いとかではなく、それだけ西郷どんが魅力的な人だったんだろうなあと・・・。
そんなことを思いながら、村田新八の誕生地を眺めてきました。
井上良馨 誕生地
井上良馨の誕生地です。
海軍大将までのぼりつめましたが、西南戦争では官軍に属し、艦長として鹿児島湾に入港しました。
西郷南洲翁宅地跡
西郷隆盛が激動の時代を過ごした宅地跡です。
碑があるだけで、住居の面影はなにもありません。
両親が相次いで亡くなり、加治屋町の屋敷を手放さなければならずここに移り住みました。
甲突川の外側なので、ここに住むのはもはや城下町とはいえず(下級武士とはいえやはりお城のある城下に住むのが武士なので)引越しをするのはさぞ、悩んだことだろうなあ、などと感じました。
現代なら鹿児島中央駅に近いので、いい場所じゃないの!と言えるんですが(笑)
西郷屋敷跡(晩年を過ごした)
加治屋町から少し離れた場所にあり、駐車場もないのですが、西郷どんが東京から帰京して西南戦争までの4年間を過ごした住居跡です。
公園になっていて、当時を偲ばせるものに、西郷家の人々が使った井戸が残っています。
屋敷の前に田畑があったようです。
晩年は犬を13匹飼っていたそうですが、これだけ広い庭だといいですね。
平成になって建立された銅像
西郷さんが使った井戸なんだなあ・・・としみじみしながら撫でてきました。
本当は西南戦争などしたくなくて、ここで家族と一緒に畑を耕して、大好きな犬たちを散歩させたり、近所の子供たちに勉強を教えたり、一農民としての幸せをかみしめながら一生を過ごしたかったろうなあ・・・などと思うと、維新というクーデターの残骸を西郷さんがすべて背負わねばならなかったことが、なんともいえない気持ちにさせてくれます。
誰かが、何かの責任を背負わないと、きっとあの激動の幕末は終われなかったんだろうなあと。
あの西南戦争があったからこそ、日本は近代国家への発展を成し遂げることができたのだと思うと、西郷さんがますます好きになりました。
大久保利通 銅像
歴史ロード(維新への道)への道をそっと見下ろす位置にある大久保利通像です。
フロックコートが似合っててダンディですね。
明治維新はこの人がいなければ成しえなかったと言えるほど、日本を近代国家に導いた人なので、銅像の立っている場所も鹿児島市の中心を通る道路沿いにあります。
西郷さんとは幼なじみで、子供のころから幕末~明治まで、いつも二人は同志であり誰よりも深く結びついていた二人でした。
その二人が西南戦争では敵同士となり、戦わねばなりませんでした。
明治政府から出た膿をどうにかしてキレイにしなくちゃならん、吉之助さぁ、悪いけどおはんがみんな持っていって、お終いにしてくれるか
わかった一蔵どん、おいが全部引き受けるから、おはんは日本を強い国にしてくれ
と、二人の中で通じ合っていたのだと、私は思います。
今日は11月25日ですので、大河ドラマの西郷どんがどんなふうに終わるのかがわからないのですが、こんなふうに終わってくれないかなあと、ひそかに願っています(笑)
歴史ロード&加治屋町 まとめ
午前中に大河ドラマ館を見て、午後に加治屋町を歩いてみて回りました。
目立たない史跡は見つけにくいので、ガイドブックやホテルに置いてある観光地図などで探すといいかもしれません。
加治屋町の史跡巡りの所要時間は3時間くらいあれば回れますが、西郷屋敷跡だけはちょっと外れたところにありますので、4時間あれば徒歩で見て回れると思います。
他にも加治屋町にはいろいろ史跡があるので、また次回に行ったときのお楽しみにしたいと思います。
鹿児島は食べ物も美味しいし、道でだれかに声をかけても(私は方向音痴なのですぐに聞いてしまうのですが)みなさんとても親切に教えてくれます。
そんな鹿児島が大好きなので、またぜひ行って、今度は城山あたりを散策したいと思います。
最後まで読んでくださってありがとうございました(#^.^#)
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